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    #1 やっぱり大槌に帰りたい(大槌町栄町)

    • 2012.08.13 Monday
    • 01:43
     「なに、栄町はよ、昔は家なんかなくてよ、海も近くて田んぼだの畑だったべ、そこに家を建てたおれだぢが悪うのよ」

    小林渉さん・敏子さん夫妻は1980年代半ばに当時住んでいた大槌町上町より小鎚川下流に近い栄町に土地を取得し家を建てる。当時の価格で一坪15万円。栄町は私が幼少の頃は既に家屋が結構建っていたが、田んぼもあり、夏の夜になると蛍の乱舞が美しかったことを思い出す。
    大槌の中心部や学校、駅に比較的近い便利な場所、ということで震災前にはアパートや新築の家が増えていた。
     あの日は自宅に友人が来ていた。地震のすぐ後その友人は帰宅し、渉さんはラジオをつける。
    アナウンサーが「大津波警報!大津波警報!」と叫ぶ。
    「とにかく気持悪い地震と放送だった。あのラジオであんなにさがんでだがらよ、逃げねばダメだと思ってよ。でもいつも津波警報といっても大きな津波がきたことが無いから、とりあえず城山に避難して夜警報が解除されたら帰宅するつもりだった」
    夫妻は、数日分の持病の薬と、財布などの貴重品を持って「徒歩で」避難しようとした。外に出るとすぐ裏に住む一人暮らしの女性が仕切りの金網につかまってまだ怖がっていた。
    「そごさいではわがんね、にげっぺし!」と促すも、女性は恐怖でなかなか動けないでいた。
    さらに、「Kさん、Kさん、まず、逃げっぺし」と促す。
    一緒ではなかったが、その女性もそれからすぐ避難して助かった。
    夫妻は、その日のうちに帰宅出来ると思い、車ではなく歩いて城山に向かう。
    「城山に行って、大槌小学校の生徒が避難しているのを見て孫を捜した」とは妻の敏子さん。しかし、その集団の中に孫の姿は見えない。
    「そういちろう!そういちろう!」と二人で声をあげて探す。
    孫の宗一郎君は、地震後父親が迎えに来て、城山の公民館よりもっと高い場所に避難していた。
    そして、そこで津波が来たのを見ることになる。
    「うちは基礎がしっかりしていて建物の作りも良かったから2度目の波では流されてはいなかった。しかし翌日見るとすっかり流されていた。」

    城山で3月15日まで孫の宗一郎君と過ごし、その間釜石で働く娘の安否を確認しようとしたが電話も繋がらず、全く情報も入らず本人も大槌にも帰ってこない。「なに、釜石で営業してて街中でも走っていて流されたんだべ」とだんだんあきらめが募って行ったという。
    3月15日に、娘の夫の実家である釜石市栗林町に行き少したつと、そこへ娘が帰って来た。
    釜石市から大槌へ向かう道路は火事のため通行止めが続き、釜石市松倉で避難生活をしていた娘はその日まで戻って来ることが出来なかったのだ。

    3月末までそこで過ごし、4月から花巻の温泉で避難生活をした。
    以後、花巻にアパートを借りて住んでいる。
    なぜ花巻に行ったのか?との問いに「んだって、なってもかっても流されでよ、片付けるものもねえし、娘婿の実家だからといってもよ、気を使うしよ。仮設はいつ建つかわがんねがったべ?そのうちこっちさアパートかりで住むべ、という話になってよ」
    「あったかいときは最高よ、便利だしな、花巻は。んだけど、冬は…こっちの冬はノイローゼになりそうだ」冬でも降雪量が少なく気温も内陸より高い沿岸部の気候に慣れた高齢のお二人の体にとって内陸部の寒さ、雪の量はこたえ、毎日のように空に覆い被さる雲は憂鬱だったようだ。

    花巻での暮らしには慣れたが、「趣味だとか活動だとかしてたからねえ、その仲間が大槌に残っているからちょっと寂しい」と敏子さんは語る。
    敏子さんは震災前は仲間とパッチワークや手芸の趣味、また老人クラブで活動をしていた。「皆と何かやるってとても楽しみだった。それが仲間がバラバラになってしまったから…」
    「現地ではいろんなNPOの支援で刺し子だとかいろいろやっているでしょう。そういうの見て、NPOだとかに頼らず、私達にも何か出来ないか、と思い、こっちに来ている方を集めてパッチワークを作ってんの。8人くらいでね。パッチワークやりたい!って言ったらあちこちから布の支援があったりして(笑)皆で将来の大槌の街をパッチワークで作り、役場に贈呈してきた。そうそう、この間全国で発売されているパッチワークの雑誌の取材も受けた(笑)」と笑顔を見せた。
    敏子さんのように、個人個人が人の手を待たず自発的に行動することがこれからの復興に大きく関わってくるであろう。そして「こんなことがしたい!」と言える雰囲気・空気作りは大事だし、必要な人に必要な支援がなされるのが最も理想的な支援の形である。


    ゆくゆくは大槌へは帰らず、どこか別の場所に住みたいと言っていた二人。
    しかしこの間会ったときは「私はやっぱり大槌に帰りたい。津波の危険が無い場所に住みたい」と敏子さんは言った。
    渉さんは「俺は…上町さ帰りてえなぁ。んだって一番愛着があるとこだもの。長くいだったしさ。上町って言ってもよ、すぐ城山に上がれるところ、学校(現大槌町仮庁舎)のちかぐさよ、住みてえな」
    お二人は既に70歳を超えている。ご夫妻でも住みたいところの意見は分かれている。
    浸水区域内に住むのは私個人的には反対であるが、お二人の年齢や復興の進み具合など考慮すると「少しでも早く好きな場所に住ませてもいいのでは…」とも考えたりする今日この頃だ。

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