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  • 2013.03.03 Sunday

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    #3 ここに来た人が笑顔になればいい

    • 2013.03.02 Saturday
    • 13:20
     震災から2年経とうとしている今、様々な情報を得ようと私のところに方々から連絡が来る。正直複雑な思いもある。「この時期だけなのか?」という思いと、質問が漠然としていて答えるのに困ることもある。だいたいの方は一様に「今、そちらに何が必要ですか?」という問いを最後に投げかける。私が把握している状況は限られる。その範囲で答えられること。「全体を見渡せる人」…発信する身でありながらなんともお恥ずかしい答えになってしまう。ここに私自身の弱さがあり、ずっとブログを更新できなかった理由がある。

    こちらの人間が何を知ってほしいと思っているのか、また、被災地の外の人たちがどんな情報を知りたいと思っているのか、そしてインターネットや報道で情報を受け取る人がどのような反応を示すのか。

    情報誌を休刊にした間私はしばらくそれを観察し、発信することの責任や怖さをまざまざと思い知った。

    それはまた後日書くことにしよう。

     

    全体を見渡せる人、というのは何も大掛かりなことではなく、どんな場所や状況であっても自分の立ち位置を知り、そこで自分の出来ることをやっていける人のことだと思う。

    当たり前のようでいて、実は当たり前に出来ない人が多いから混乱する。みんな思いは一緒であっても気持ちが先走る。実際私もそうであったし、今模索している人もたくさんいるであろう。出来ることから少しずつ、と思ってもやはり気持ちは抑えきれないもの。それがいつの間にか、最初の想いとは別の方向へ流されているのではないかしら、と感じることもしばしば。

     

    そんな、いろいろと悩んでいた時期に「笑顔を作りたい」という一言をツイッターで見た。

    愕然とした。

    その時私が一番忘れていたものだ。

     

    その言葉をツイッターで発していたのは、平野仁さん。大槌出身の格闘家である。

    サッカーや野球などのスポーツにもほとんど興味のない私は格闘技というものは最も未知の世界の話で、そのせいなのかそれまで気持ち的に引っかからなかったというのもあったかもしれない。そして格闘技で笑顔ってどういうこと?と。ストイックに相手や自分と向き合うもの、という漠然とした思い込みがあったのだ。とても厳しいもの、というイメージ。ただ、彼のツイートのはしはしに、各団体が行っている復興やまちづくり関係の活動とはまた違ったニュアンスで独自で活動していて、その活動ももちろん平野さん自身にも魅力を感じた。

    garaaca1


    そして去年10月、彼が主催する「GRAACA 釜石ベース」へお邪魔した。そこで謎がいっぺんに解けてしまった。

    参加している皆さんが笑顔なのだ。本当に心から楽しそうに笑っている。一人の女性に聞いてみた。「スッキリして楽しいです。来るのをとても楽しみにしている」と。

     

     平野さんは大槌町波板の出身でご実家は民宿を経営していた。民宿の仕事で忙しいお母さんを手伝いながら、「強くなりたい、強くなりたい」と思い育った。高校時代はハンドボール部に所属、大学時代に格闘技をやりたくてレスリング部に入り、その後GRAACAを始める。プロデビューは二十歳のとき。今でも年に3回は海外へ行き試合に出場する。

    震災の前は大槌の城山体育館で、プロになりたい人限定でGRAACAを指導していた。

     

     平野さんは数年前に釜石市甲子町に家を建て大槌から引越していた。甲子町は釜石市西部。津波という災害だけで言えば心配のない地域である。

     あの日は釜石市松倉(甲子町)の職場にいて、工場の機械が止まりみんなで外に避難した。ラジオで津波が来る、と聞き、小佐野町の保育園に奥さんと子どもを迎えに行く。その後小佐野小学校の校庭に避難した。

     しかし「波板にある実家がヤバイ」と感じ一人で大槌へ向かう。途中、釜石駅近くにある鈴子町の電気店で車が戻ってきたり人が走っているのが見え「これは行けないな」といったん保育園に戻る。

     その後は奥さんの家族たちが食料等を持ち寄りしのいだ。12日にはラジオやワンセグで情報を得る。また、トラックの運転手をしていた義理のお兄さんに会い「(浪板の)家がなかった」と聞きがっくりした。

    「ああ終わった。母さんは津波を気にする人じゃなかったし、じいちゃんもばあちゃんも外に出る人じゃなかったから死んだな…」と…。そして13日の朝、「とにかく行かなきゃ」と、みんなのガソリンを集め遠野を回って浪板へ向かった。

     途中、吉里吉里から歩いて、高台から浪板を見たとき、「ここはどこだ?夢か?ラジオでも大槌のことやってなかったし…まさか自分の生まれたまちが?」と精も根も尽きてしまって線路に座りしばらくボーっとしていたという。浪板には高台に交流センターがあり、そこへ行ってみることにし。歩き始める。18歳から格闘技をやったおかげで瓦礫の上も歩くことは苦ではない。途中同級生のご遺体も発見した。そして会う人会う人、彼の家族のことを何も言わない。ご遺体を交流センターの下の児童館へ運んでいる人もいた。

     センターに着くと外で海を見ている女性がいる。「あれ?母ちゃんの背中だ」

    「生まれて初めて母ちゃんと抱き合ったよ。とにかく二人で泣いて泣いていがったいがったって。でもじいちゃんとばあちゃんのことを聞くのが怖かった」

    二人はセンターの中にいて、祖父は逃げる途中あばら骨を折り、それでもシップを貼る処置が施されていただけだった。その時点でまだ役場も自衛隊も到着しておらず、浪板の外から来たのは平野さんが初めてで、みんなが釜石の状況を聞きたがりそれをメモしていた。「そのうちばあちゃんが、いづまでもいねえではえぐ帰れ。道場の子ど孫、絶対殺すなよって言って、ハッとしたんだよ。すっかり頭に無かったからさ。守るのは家族だけではなかったな、と」

     帰途につくころには自衛隊が到着していた。

    仕事もないし、明日からどうする?ただいるわけにもいかないし、と、男性陣は親戚を探そうということになり14日朝家を出て合同庁舎など安否確認が出来るところをまわった。NTTで電話をかけるために並ぶ暇はなかった。釜石小学校や小佐野小学校、甲子小学校を回り安否確認する日が続く。停電も水道が止まっていたのも10日くらいという。

     そのうち職場から「電気が通ったから機械をうごかせる。動かさないと汚物が溢れる」と連絡がある。「自分の家族のことが大事だから仕事を辞める」とも思った。しかし朝1〜2時間仕事をして街中へ行く、を繰り返しその間職場で出されるおにぎりも食べず、風呂に入れない人もいるのに、と悔しくてお風呂にも入らなかった。ある程度落ち着き、親戚や知人の安否も確認できた3月末あたりからフルタイムで勤務に戻る。

     パソコンも使えるようになり、メールをチェックすると海外のスポンサーや道場の仲間から安否を心配するメールが届いていた。また、3月のうちに東京のプロの格闘家から何が必要か?と連絡があり、灯油、米を10トントラック3台で運んでもらったり、大槌町の城山体育館や大槌高校で5回ほど炊き出しもしてくれたという。

     

     ここまで書いて、私は平野さんのそれまでの生き方に改めてハッとする。

     安否を確認するメールは、多くの人が受けとったと思う。しかし、被災地にいる仲間やその地域の人たちのために、損得抜きで遠方から物資を届け、五回も炊き出しをしてくれる仲間がいるということはその人の生き方そのものが現われていると思うのだ。そしてその仲間は平野さんが主催するバザーや炊き出し、浪板の公園作りと、今なお集まってくれる。

     震災直後は被災地に全国、また世界中から支援に訪れてきた方々がたくさんいる。

    そしてその数は支援のニーズが多様化する中、また月日をおうごとに減り、冒頭のような「今、そちらに何が必要ですか?」の問いに結びついていく。

     平野さんが、「みんなが笑顔になれる場」、釜石ベースを始めたのは2012311日。意識したわけではなく偶然この日だった。

    graaca2

    「嫌なことを忘れて楽しんで笑っていい顔して帰って欲しい。そして旨いビールを飲む!」

     「格闘技のおかげでそれを活かして恩返しできる。子ども達が笑えば親が笑う、親が笑えば子どもも笑う」

    「嫌なことがあっても家では言わない。もしどこかで何かが起こったとき、子どもには真っ先に行って欲しい。それを背中で見せなきゃいけない」

    決してかっこつけているわけでもなく、おおげさに自分のやっていることをアピールしたりするわけでもない。淡々と答えてくれた。

     

     状況状況で、自分の出来ること、やるべきことを知り、そして意思表示をしっかりし(これが苦手、また出来ない人が多いと思うのだ)、ユーモアで人を笑顔に出来る個人が増えると、もっと街の空気も変わっていくと思うのは私だけだろうか。

     何度も書いているようなきがするけれど、そして多くの方が気がついていることだとは思うけれど、その個人が互いに活かしあうことが出来たとき本当に復興に向かうのだと思う。今はまだその点が線になっていないだけなのだ、と。

     

     

     

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      #2 安心して生活出来る場所に街づくりを(大槌町栄町→釜石市栗林町)

      • 2012.08.19 Sunday
      • 13:51
       「建物の一番上に上がってしばらくして見ると、ズボンの裾が濡れていた。無我夢中で気がつかなかった」

      震災当時大槌町栄町に住み、釜石消防署に勤務していた駒林博之さん(45歳)は震災以後ずっと「避難しなくてもいい場所に街づくりを」と思い続けている。

      駒林さんは、釜石市栗林町出身で数年前に大槌町に引っ越してきた。当初は大槌消防署勤務だった。
      出身地の栗林町は海から約7キロほど離れた山里で「津波被害」とはほぼ縁がない地域であるが、仕事柄防災の意識は高く、大槌町に引っ越した時は「ここは地震がきたらすぐ避難しなければならない場所だ」「津波が来たら大変だぞ、栗林に戻った方がいいんじゃないか?と思うぞ」と常日頃から家族に話していた。家族は「そんな大きな津波が来るかな?」と訝しげだった。
      震災の前年チリ地震津波の警報が出された時は、のんびりしている妻に「何してんだ、早く避難しろ」と促した。

      あの日、駒林さんは仕事が非番で小学校1年生の息子の帰りを妻の実家(栄町)で待っていた。
      時間は14時。いつもならそろそろ下校してくる息子がまだ来ない。
      「帰る時間を間違えたかな?」といったんアパートに戻り、腰を下ろすと背筋がゾクゾクするような悪寒を感じ「風邪ひいたべか?ちょっと休むか」と横になった。
      それからどのくらいたったのか。強い揺れを感じ、「ただ事でない」とすぐ家を出て車を出す。
      不思議なことに、あのくらいの強い揺れでも家財はほとんど部屋に散らかることがなかった。
      ちょうど幼稚園のバスを待っていた同じアパートのお母さんたちが道路に見えて何か話しかけられたような気がするが、一刻も争えないと思い息子が通う小学校まで車を飛ばした。
      途中、妻の実家に立寄り、両親を乗せて行こうかとも考えたが、「いや、避難するはずだ」と思いそのまま向かった。なぜここで「避難するはずだ」と思ったかは後々の彼の行動で明らかになる。
      小学校に着くと生徒たちは校庭に集まっていた。親が迎えに来た生徒は引き渡している。
      息子を車に乗せると、ある言葉が頭をよぎった。
      それは震災の2日前、3月9日のことだった。あの日もお昼近くに大きな地震があった。
      妻の実家で下校した息子と二人でいると、義父が「大きい地震がきたら、高いとこ、高いとこ、って目指して逃げるんだぞ、じいちゃんもそうすっからな」と孫に言い聞かせていた。
      小学校の脇を上がれば城山に着く。しかし、駒林さんは先の言葉を思い出しさらに高い場所まで息子を連れて行った。ちょうどそこに知人がいたので息子を託し車を置き新町にある大槌消防署へ走って向かった。

      消防署では地震の対応に追われていた。
      救急車、消防自動車を今後出動出来るようとにかく安全な場所へ、ということで安渡方面のバイパスへ上がるよう指示した。
      そのうち堤防へ様子を見に行っていた隊員が「津波がきた!津波が来た!」と叫んで入って来た。皆、一斉に無我夢中で建物の屋上を目指した。
      DVC00445.jpg


      大槌消防署は3階建てである。しかし予想をはるかに上回る波の大きさに「屋上でも駄目だ!」とさらに高い正面の狭い空間へ上る。目の前を恐ろしい早さで波が引いて行く。
      瓦礫につかまり流されていく三人の人間を見た。「おーいおーい!!」と叫んでいる。しかしどうすることも出来ない。本来救助活動すべき自分たちが、流されていく人にロープ一本たらしてやれないもどかしさ…
      三人はそのまま決壊した防潮堤の隙間から沖へ流され、新たに襲いかかる波に飲まれていった。
      また、一人の町職員を乗せて流れて来た屋根が向かいのポンプ場に引っかかっているのが見えた。「あがれ!そこをあがれ!」ポンプ場にはベランダのようなものがあり、柵につかまれば助かりそうだったことから、そこにいた全員が「あがれ!頑張れ!」と叫んだ。彼は柵をあがり助かった。
      駒林さんが避難した場所も安全ではなかった。
      「あと50センチ位波が高ければ皆流されていました」
      避難出来た消防職員は13名。津波が落ち着きふと見渡すと一緒にいたはずの隊員二名が見当たらない。
      「どごさいったのや?上がってくる時までいっしょだったべや?」
      20代と30代前半という若い隊員二人のご遺体が見つかったのは津波から数日後だった。
      お二人ともその日は非番だったのだが出動して「殉職」したのだ。
      駒林さんは言う。
      「俺はたまたま助かったからだけれども、何秒かの差で流されていたかもしれない。消防署員は災害後の救助も任務だ。自分の命が助かって人を助けることが出来る。わざわざ危険個所にある消防署へ出動するのが正しいことかどうかわからなくなった、というより死んでは駄目だ…二人の死を殉職…(言葉に詰まる)と言いたくない。各々の住む場所で避難誘導し、自分も危険だと感じたらすぐ逃げる、そういうふうに体制を変えて行かなければ…。」
      「殉職と言いたくない」という駒林さんの顔には仲間を亡くした悔しさがありありと浮かんでいた。震災後消防署員や消防団員の「殉職」を美談に仕立てている報道があると「そんなもんじゃねえ」と怒りがこみ上げた。
      また、同級生の隊員一人は鵜住居町の自宅の二階で家族4人で亡くなっているのが後日わかった。告別式で弔辞をよむことになり、その文面にたいそう悩んだ。
      「なんで子ども迎えに行った後、高い所に逃げなかったんだべ…でも自分ももしかすると2階だから大丈夫、と思ったかもしれないな」と複雑な心境だったという。

      震災後は自分の実家のある栗林町へ引っ越した。
      子どもも転校させた。

      「介護が必要なお年寄りを避難させようとして亡くなった人や、自分だけ逃げられない、と言って一緒に流された人もいる。自分はまだ元気だから大丈夫、という人がいるがいつ何時介護が必要な体になるかわからない。そのとき同じ思いを子どもにさせたいと思うか?嫌だ。そして子どもを危険箇所を通らせて通学などさせたくない。大槌も釜石も避難しなくていい場所に土地が残っているではないか。ここ、栗林だってそうだし、大槌は小鎚や金沢だってあるだろう。整地してすぐ住むことも出来るし…街づくりって浸水区域をどうするか、ということももちろんあるかとは思うが、安心して住むことが出来る場所へ生活基盤を作ることも必要ではないのかな」
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        #1 やっぱり大槌に帰りたい(大槌町栄町)

        • 2012.08.13 Monday
        • 01:43
         「なに、栄町はよ、昔は家なんかなくてよ、海も近くて田んぼだの畑だったべ、そこに家を建てたおれだぢが悪うのよ」

        小林渉さん・敏子さん夫妻は1980年代半ばに当時住んでいた大槌町上町より小鎚川下流に近い栄町に土地を取得し家を建てる。当時の価格で一坪15万円。栄町は私が幼少の頃は既に家屋が結構建っていたが、田んぼもあり、夏の夜になると蛍の乱舞が美しかったことを思い出す。
        大槌の中心部や学校、駅に比較的近い便利な場所、ということで震災前にはアパートや新築の家が増えていた。
         あの日は自宅に友人が来ていた。地震のすぐ後その友人は帰宅し、渉さんはラジオをつける。
        アナウンサーが「大津波警報!大津波警報!」と叫ぶ。
        「とにかく気持悪い地震と放送だった。あのラジオであんなにさがんでだがらよ、逃げねばダメだと思ってよ。でもいつも津波警報といっても大きな津波がきたことが無いから、とりあえず城山に避難して夜警報が解除されたら帰宅するつもりだった」
        夫妻は、数日分の持病の薬と、財布などの貴重品を持って「徒歩で」避難しようとした。外に出るとすぐ裏に住む一人暮らしの女性が仕切りの金網につかまってまだ怖がっていた。
        「そごさいではわがんね、にげっぺし!」と促すも、女性は恐怖でなかなか動けないでいた。
        さらに、「Kさん、Kさん、まず、逃げっぺし」と促す。
        一緒ではなかったが、その女性もそれからすぐ避難して助かった。
        夫妻は、その日のうちに帰宅出来ると思い、車ではなく歩いて城山に向かう。
        「城山に行って、大槌小学校の生徒が避難しているのを見て孫を捜した」とは妻の敏子さん。しかし、その集団の中に孫の姿は見えない。
        「そういちろう!そういちろう!」と二人で声をあげて探す。
        孫の宗一郎君は、地震後父親が迎えに来て、城山の公民館よりもっと高い場所に避難していた。
        そして、そこで津波が来たのを見ることになる。
        「うちは基礎がしっかりしていて建物の作りも良かったから2度目の波では流されてはいなかった。しかし翌日見るとすっかり流されていた。」

        城山で3月15日まで孫の宗一郎君と過ごし、その間釜石で働く娘の安否を確認しようとしたが電話も繋がらず、全く情報も入らず本人も大槌にも帰ってこない。「なに、釜石で営業してて街中でも走っていて流されたんだべ」とだんだんあきらめが募って行ったという。
        3月15日に、娘の夫の実家である釜石市栗林町に行き少したつと、そこへ娘が帰って来た。
        釜石市から大槌へ向かう道路は火事のため通行止めが続き、釜石市松倉で避難生活をしていた娘はその日まで戻って来ることが出来なかったのだ。

        3月末までそこで過ごし、4月から花巻の温泉で避難生活をした。
        以後、花巻にアパートを借りて住んでいる。
        なぜ花巻に行ったのか?との問いに「んだって、なってもかっても流されでよ、片付けるものもねえし、娘婿の実家だからといってもよ、気を使うしよ。仮設はいつ建つかわがんねがったべ?そのうちこっちさアパートかりで住むべ、という話になってよ」
        「あったかいときは最高よ、便利だしな、花巻は。んだけど、冬は…こっちの冬はノイローゼになりそうだ」冬でも降雪量が少なく気温も内陸より高い沿岸部の気候に慣れた高齢のお二人の体にとって内陸部の寒さ、雪の量はこたえ、毎日のように空に覆い被さる雲は憂鬱だったようだ。

        花巻での暮らしには慣れたが、「趣味だとか活動だとかしてたからねえ、その仲間が大槌に残っているからちょっと寂しい」と敏子さんは語る。
        敏子さんは震災前は仲間とパッチワークや手芸の趣味、また老人クラブで活動をしていた。「皆と何かやるってとても楽しみだった。それが仲間がバラバラになってしまったから…」
        「現地ではいろんなNPOの支援で刺し子だとかいろいろやっているでしょう。そういうの見て、NPOだとかに頼らず、私達にも何か出来ないか、と思い、こっちに来ている方を集めてパッチワークを作ってんの。8人くらいでね。パッチワークやりたい!って言ったらあちこちから布の支援があったりして(笑)皆で将来の大槌の街をパッチワークで作り、役場に贈呈してきた。そうそう、この間全国で発売されているパッチワークの雑誌の取材も受けた(笑)」と笑顔を見せた。
        敏子さんのように、個人個人が人の手を待たず自発的に行動することがこれからの復興に大きく関わってくるであろう。そして「こんなことがしたい!」と言える雰囲気・空気作りは大事だし、必要な人に必要な支援がなされるのが最も理想的な支援の形である。


        ゆくゆくは大槌へは帰らず、どこか別の場所に住みたいと言っていた二人。
        しかしこの間会ったときは「私はやっぱり大槌に帰りたい。津波の危険が無い場所に住みたい」と敏子さんは言った。
        渉さんは「俺は…上町さ帰りてえなぁ。んだって一番愛着があるとこだもの。長くいだったしさ。上町って言ってもよ、すぐ城山に上がれるところ、学校(現大槌町仮庁舎)のちかぐさよ、住みてえな」
        お二人は既に70歳を超えている。ご夫妻でも住みたいところの意見は分かれている。
        浸水区域内に住むのは私個人的には反対であるが、お二人の年齢や復興の進み具合など考慮すると「少しでも早く好きな場所に住ませてもいいのでは…」とも考えたりする今日この頃だ。

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          41歳の涼しい夏の夜に

          • 2012.08.08 Wednesday
          • 02:20
          あの日以来、私の中で大きく何かが変わってしまった。
          それは変わらざるをえない状況のことだったり、それまで自分の中で抑えてきたものが、一気に吹き出したことだったり…
          だって、風呂に二週間も入れず、下着も替えがないので洗濯して生乾きのパンツをはき、着るものがなくくるぶしが見えるようなつんつるてんのジャージでたいして化粧もせず歩き、知人にそれを笑われても何とも思わない、なんてことはそれまでの生活でありえなかったわけだから(笑)

          そんなこんなでまず、変わったことと言えば「物欲」がほとんどなくなってしまったこと。
          モノを「所有」するという気が失せてしまったのだろう。
          本当に、欲しいものと言えばピアノくらいのものだ。


          それでも震災前の暮らしを懐かしみ、夜中ふとした時に急に涙があふれ枕を濡らしたことは一度や二度ではない。
          そしてそれは以前ほど頻繁ではなくても時々私を襲い、不毛なセンチメンタルへと掻き立て後戻りさせたがる。
          時々大槌の流されたアパート前まで導かれるようにたどり着き、あれこれ思ううち涙があふれることもある。
          しかし、それまで自分を縛り付けて来た価値観まで私は津波に流してしまったのだ。
          もうあの頃の私には二度と戻れない。

          「こうしなけれここで暮らせない」
          「こうでないと仕事が出来ない」
          「こうでないと生きられない」
          「こうでないと幸せになれない」

          それまでどんなにそんな呪縛の中で生きてきたことだろう。
          しかし、まだ全て割り切って解放された状態ではない。
          迷うこともあり、やさぐれることもあり、腹の立つこともあり、感情的にわーわーわめきたくなることも多々ある。(そしてわめき、迷惑をかける人もいる、ごめんなさい)
          しかしその矛先はあきらかに震災以前とは違うのだ。

          昨年から、釜石市の半島をまわり取材を重ねて来た。
          そこに生きる人々の凛とした強さに励まされたり、一緒に腹立たしい気になって怒ったり。
          被災の程度に関わらず、個人個人にストーリーがある。
          今ここで生きる人々の思いやこれからどう生きるのか、頻繁に更新は出来ないかもしれないが、それを伝えていけたらと思う。

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